千鶴「それとね‥お父さんの仕事のこともあ
って‥」
十与「‥ああ」
千鶴「お父さん、元々技術ばたけだし、いい
んじゃないかなって私は思ってる‥」
十与「‥決めたの?」
哲郎「うん、決めた。‥たとえ会社の人達全
員に責められたとしても仕方ない。そこま
でを引き受けないときっと駄目なんだと思
うんだ‥」
十与「そうなんだ‥そうしたらお父さん納得
がいくのかな?」
哲郎「分からない‥それでも自分がしたこと
が無くなる訳じゃないから、それでも納得
がいかないのかもしれない‥でも今よりは
まだマシなんだ‥」
十与「‥お母さんはお父さんが苦労するの見
るの辛くないの?」
千鶴「‥今の方がラクに暮らしていけるのか
もしれないけど、お父さんがそう決めたん
-201-
なら応援しようと思う。きっと相当大変な
んだろうけど、今よりその方がお父さんら
しい気がする」
十与「ふーん‥何か私には分からない二人の
世界があるんだなって‥ちょっと羨ましい
ような気もする‥」
哲郎「俺、あの時会社を辞めて、本当は誰も
知ってる人のいない遠い所に行こうと思っ
てたけど、何か富士山が見えるところから
離れられない気がして‥この土地で酒屋を
継いでコンビニ始めて、周りの人達に助け
られて救われて‥でもずっと道がない所を
歩いているようで、どこに向かっているの
か分からなくて、ただ毎日をやり過ごして
た‥」
(フラッシュ)コンビニで商品整理をしてい
る哲郎。ふと人に話しかけられる哲郎。
哲郎「‥人と会うのがずっと怖くて、どうし
てもずっと慣れなくて‥ふと、これから先
もこれが毎日続くのかと思うと何か急に耐
-202-
えられる気がしなくなったんだ‥」
十与「うん‥分かった‥ごめん、分かったよ
‥」
千鶴「ね?カッコイイでしょ?」
鼻をすすりながらチャーハンを食べて
いる十与。
十与「うん。そうだね」
哲郎「いや違う‥カッコ悪い話なんだ‥十与
は親のカッコ悪い所見たくないかもしれな
いけど、俺は十与に俺のカッコ悪い所をし
っかり見て欲しいんだ。こうなりたくない
って思われても仕方ない。俺は親だけど不
完全な人間なんだ‥カッコ悪くて申し訳な
いけど‥」
十与「‥」
千鶴「私はカッコいいと思ってるから。それ
は譲れない」
哲郎「‥はは」
十与、空のお皿を持って立ち上がる。
十与「おかわりしてこ‥」
-203-
〇同・キッチン(夜)
フライパンからチャーハンをお皿につ
いでいる十与。
十与「何かいいな‥」
仲良く話している哲郎と千鶴の姿を嬉
しそうに眺める。
〇同・ダイニング(夜)
哲郎「コーヒーのこと聞いてみたか?」
千鶴「コーヒー?」
哲郎「こないだ男の子と一緒だって言ってた
って話しただろ?」
千鶴「ああ、大丈夫大丈夫。妄想だよ」
哲郎「妄想?だって実際にコーヒー二本買っ
て行ったのに?」
千鶴「だってこないだ妄想の中で好きな気持
ちが伝わらないって悩んでたし、きっとそ
うだよ」
哲郎「‥それはそれで心配だな」
-204-
心配そうな哲郎。
○同・キッチン(夜)
チャーハンを皿に山盛りによそい、フ
ライパンを洗っている十与。
哲郎が来る。
哲郎「全部食うのか?」
十与「あ、ごめん。お父さん半分あげるよ」
哲郎「ああ‥」
十与、自分のお皿から哲郎のお皿に半
分分ける。
哲郎「関口君からお前が会社に来たらしいっ
て聞いたんだ‥」
十与「うん‥ごめんなさい。知ってる人があ
の会社に勤めてて用事があって行ったの」
哲郎「‥何か悪かったな‥俺のせいで嫌な思
いしたんだろ?」
十与「違うよ。あの時はお父さんが会社に戻
るなんて思わなくて‥私こそ、私のせいで
余計に行きづらくなったでしょ‥ごめんな
-205-
さい‥」
哲郎「いや‥そんなことないよ。詳しい事情
は分からないけど、十与のしたことを嬉し
く思うよ」
十与「‥私、お父さんの娘で本当に良かった
から。誰がどんなことを言って来たって、
その人の中のお父さんより私の中のお父さ
んの方が本物に近いって思う」
哲郎「‥」
十与「どうしても辛かったら会社辞めてもい
いからね。私コンビニ大好きだから、そし
たら頑張ってまた再開しよう」
哲郎「‥そうだな」
半分づつよそわれたチャーハン。
○富士樹海の森の中の地下にあるケケレヤ
ツ・ムクナの住む家・居間(夕)
ベッドに寝ているムクナ、陣痛に苦し
んでいる。
お湯を準備しているヒビク。
-206-
ドアの鈴の音が鳴る。
トドクの声「ニイ、ミヤコさんが来てくれた」
玄関へと向かうヒビク。
○同・玄関(夕)
ヒビク、ドアを開けるとトドクの横に
ミヤコ(37)とミヤギ(16)が立
っている。
ヒビクの声「すみません‥助かります」
ミヤコの声「いえ、ムクナのお祖母ちゃんに
は本当にお世話になって‥私に出来ること
があれば、是非」
ヒビクの声「ありがとうございます」
ミヤコの声「陣痛が始まってどれくらいです
か?」
ヒビクの声「一時間くらいです。どうぞ上が
って下さい」
中へと入っていくヒビクとミヤコ。
玄関先で少し迷っているミヤギ。
トドクの声「ミヤギも中へ入って」
-207-
ミヤギの声「私、何も出来ないから‥それに
ちょっと怖い‥」
トドクの声「‥ムクナも小さい頃からバアに
ついて行ってたんだよ。最初は怖くて隠れ
てたんだって」
ミヤギの声「‥」
トドクの声「ミヤギがいたら、ムクナも心強
いと思うから行ってあげて」
ミヤギの声「‥うん」
中へと入っていくミヤギ。
○善行地家・外観
『今月末閉店』の大きな貼り紙がされ
ている一階部分。
○同・一階コンビニ・店内
商品補給をしている十与の後ろに立っ
ている吉沢。
吉沢「本当にこんな広い所使わせてもらって
もいいの?」
-208-
商品補給をしながら話している十与。
十与「はい。二階も人が住めるようになって
いるので、要りようだったら宿泊施設とし
ても使えるんじゃないかって言ってました」
吉沢「有難い‥何かこんなことがあると報わ
れる感じがするな。いつも嫌われ役をしな
きゃいかんからね‥」
十与「‥そうなんですか?」
吉沢「日本で働いてる人達のことで雇い主さ
んなんかと交渉したりね。私も嫌なことも
いっぱい言わんといかん。だからこんな親
切にされると、何か慣れなくてね‥嬉しい
ね‥」
しみじみと話す吉沢。
ふと、手にした缶コーヒーを見つめる。
○吉沢の車内
運転している吉沢の助手席に座ってい
る十与。
吉沢「今日はご両親にお会いできなくて残念
-209-
です。またお尋ねしますが、是非お礼を伝
えておいてください」
十与「分かりました」
吉沢「ネパール行きのこと話されましたか?
」
十与「それがあっさり行って来なよって言わ
れました」
吉沢「すごい、素敵なご両親なんですね」
十与「はい、感謝しています」
吉沢「では、行かれますか?」
十与「‥もう少しだけ考えてもいいですか?
」
吉沢「分かりました」
十与「すみません‥」
吉沢「いえいえ‥こんなこと言って申し訳な
いけど、行ったら絶対に後悔すると思って
もらいたいんです」
十与「そうなんですか?」
吉沢「うん‥もう一度、ゼロ歳から始めるっ
て思わないと、日本の常識なんて何の役に
-210-
も立たないから、自分を大人だと思って行
くとコテンパンに叩きのめされます」
十与「‥そんな、そんなこと言われたら行け
なくなります」
吉沢「うんうん、それでいい。傷つきに行く
ようなものだから‥」
十与「そうなんですか‥」
窓の外の富士山を見ている十与。
○コーポ富士見・十与の部屋・リビング
『ネパール人材派遣』の資料に目を通
している十与。
ため息をつき、ハンガーにかかったト
ドクのコートを眺める。
十与「‥行ってみよう」
十与、意を決したように立ち上がる。
○バス車内
バスに乗り、外を眺めている十与。
山の中の景色。
-211-
○富士樹海・遊歩道入口(夕)
十与、『神原樹海遊歩道』の地図の立
て看板を見ている。
○同・遊歩道(夕)
木々の生い茂る中を歩いて行く十与。
夕日が差し込んでいる。
○富士樹海の森・大きな岩から少し離れた空
き地(夕)
木に吊り下げたランプの下で作業をし
ているトドク、ベビーベッドが出来上
がる。
ホッとため息をつくトドク、ふと周り
を見回す。
木々が風に揺れている。
トドクの声「‥なんだろう。何か森がいつも
と違う気がする‥」
岩の方からヒビクが近づいて来るのに
-212-
気付くトドク。
トドクの声「ムクナどう?」
ヒビクの声「まだ、もう少しかかりそうだっ
て‥ミヤコさんが今のうちに気分転換に外
に出てきたらって言ってくれて‥」
トドクの声「そっか‥もうすぐ丸一日だね‥」
ヒビクの声「うん‥」
トドクの声「あんなに苦しいんだね‥すごい
ね‥」
ヒビクの声「うん‥すごいな‥」
トドクの声「ニイ‥何か今日、森がいつもと
違わない?」
辺りを見回すヒビク。
ヒビクの声「そうかな?‥俺にはいつもと同
じように思えるけど‥」
トドクの声「そっか‥気のせいかな‥もしか
したらもうすぐ赤ちゃんが生まれるからか
な?」
ヒビクの声「そうなのかな?‥ベッド、出来
たんだ」
-213-
トドクの声「うん。これから拭きあげて完成。
間に合って良かった」
ヒビクの声「ありがとう‥」
トドクの声「運ぶの手伝って」
ヒビクの声「うん」
ベッドの両側を持ち運んで行くトドク
とヒビク。
トドク、怪訝そうに空を見上げる。
○富士樹海・遊歩道(宵の口)
日が落ちて急に暗くなってきた森。
鳥たちの鳴き声の聞こえる中、懐中電
灯を照らしながら歩いていく十与。
○富士樹海の森の中の地下にあるケケレヤ
ツ・トドク達の住む家・キッチン(宵の
口)
おにぎりを作っているトドク。
○富士樹海・遊歩道折り返し地点(宵の口)
-214-
懐中電灯を持った十与が折り返し地点
に辿り着く。
十与「折り返しか‥」
森の先を眺める十与。
十与「外の人間は近づけないって言ってたも
んな‥やっぱり無理なのかな‥」
リュックから携帯を取り出す十与。
GPS機能が働いていることを確認す
る。
十与「‥もっと奥へ行ってみよう」
十与、更に奥の森へと入る。
○富士樹海の森の中の地下にあるケケレヤ
ツ・ムクナの住む家・玄関前(夜)
トドク、鈴を鳴らしてドアを開ける。
○同・玄関(夜)
トドクの声「ニイ、おにぎり持ってきた。こ
こに置いておくね」
トドク、玄関先におにぎりを置くとミ
-215-
ヤギが現れる。
ミヤギの声「もうすぐ生まれるかもしれない
って」
トドクの声「ほんと?」
ミヤギの声「うん」
トドクの声「そっか‥頑張って」
ミヤギの声「‥私、何も頑張れないよ」
トドクの声「‥これからだよ」
ミヤギの声「ほんと?」
トドクの声「‥分かんないけど」
ミヤギの声「なにそれ」
笑うミヤギにおにぎりの皿を渡すトド
ク。
トドクの声「頑張れ」
頷くミヤギ。
○富士樹海・遊歩道(夜)
懐中電灯を持って遊歩道を歩いている
十与、立ち止まり遊歩道から外れた樹
海の奥の方へと入っていく。
-216-
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
大きな岩の上に座っているトドク。
トドクの声「今七時くらいかな‥何してるか
な‥」
夜空の満月を見上げるトドク。
○富士樹海の中(夜)
携帯のGPSを確認しながら歩いてい
る十与。
十与「充電の減りが早いな‥もう少ししたら
引き返さないと戻れなくなるかもしれない
‥」
懐中電灯で前方を照らすが、只樹木が
続いている。
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
ふと立ち上がり、周りの森を眺めるト
ドク。
トドクの声「やっぱり何かいつもと違う気が
-217-
する‥」
○富士樹海の中(夜)
携帯の画面を見ながら、木々の中をひ
たすら歩いている十与、立ち止まる。
十与「‥駄目だ。もう戻らないと‥」
充電が2パーセントになっている。
十与、祈るように手を組み集中する。
十与「トドク君‥届いて‥」
鳥の鳴き声だけが聞こえている。
ため息をつく十与。
十与「ダメか‥仕方ない‥」
十与、踵を返し来た道を戻っていく。
一度振り向くが、諦めたように道を戻
っていく。
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
大きな岩の上に立っているトドク、深
呼吸をして目を瞑る。
トドクの声「‥どこにいる?俺の声届く?」
-218-
○富士樹海の森(夜)
携帯の画面を見ながら歩いている十与。
充電が切れ、画面が暗くなる。
十与「あ、切れた‥」
少し不安げな十与、真っ直ぐ前を見る。
十与「大丈夫。このまままっすぐ行けば着く」
十与、携帯をリュックの脇のポケット
に入れようとして誤って落としてしま
う。ゴトンという音。
十与「あ、落としちゃった!やばい‥どこい
ったかな?」
十与、懐中電灯で辺りを探し始める。
暫く探すと少し離れた所がキラリと光
り、携帯が転がっているのを見つける。
ホッとして携帯を拾う十与。
十与「良かった」
ふと辺りを見回すと方向が分からなく
なっている。
十与「あれ?‥どっちだっけ‥」
-219-
キョロキョロと辺りを見回す十与。
十与「やばい‥分からなくなってる‥」
呆然と立ち尽くす十与。
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
目を開けるトドク。
トドクの声「届く訳ないか‥」
トドク、ため息をつき岩の上に仰向け
に寝転がる。
○富士樹海の森(夜)
呼吸が早くなっていく十与。
十与「どうしよう‥」
座り込んでしまう。
暫くすると霧が立ち込めてくる。
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
寝転がっているトドク、霧に包まれる。
トドクの声「霧だ‥」
ふと上半身を起こすと西の空に白い虹
-220-
が掛かっている。
トドクの声「あ‥霧虹」
立ち上がるトドク。
トドクの声「何だろう‥やっぱり何かがある
気がする‥何だ?」
深呼吸をして目を閉じる。
ヒビクが霧の中、トドクに近づいてく
る。
トドクの声「あ、いた。トドク!生まれた!
トドク!」
じっと集中するがため息をついて目を
開けるトドク。
トドクの声「分からない‥何なんだ‥」
ヒビクの声「トドク‥聞こえてないのか?」
不安げにトドクへ近づいてくるヒビク。
トドク、息を大きく吸って霧虹に目を
凝らす。
トドクの声「駄目だ‥何なんだ‥気付け!」
呼吸が荒くなり、神経が昂るトドク。
トドク「ウワーーーー!」
-221-
叫び声が出るトドク。
走って来たヒビクが後ろからトドクを
抱きしめる。
ヒビクの声「トドク!止めろ!」
○富士樹海の森(夜)
蹲っている十与、ふと寒気がして顔を
上げると周りに霧が立ち込めているの
に気付く。
十与「霧‥そういえば霧が立ち込めて近づい
て来る人を阻害するって言ってたっけ‥駄
目だ、落ち着こう」
十与、空を見上げると木々の間から夜
空に白い虹が掛かっているのが見える。
十与「あ‥白い虹だ‥」
呆然と虹を眺めている十与、すっと立
ち上がり手を組んで祈る。
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
トドク、自分の声に驚き、両手で喉元
-222-
を押さえる。トドクを抱きしめている
ヒビク。
霧虹が強い光を放ち、辺りが白く光る。
思わず目を瞑るトドク。
(フラッシュ)森の中で手を組んで祈ってい
る十与の姿。
トドクの声「あっ?!」
驚くトドク。
○富士樹海の森(夜)
祈っている十与。辺りが白く光る。
(フラッシュ)岩の上に立ってヒビクに抱き
締められているトドクの姿。
十与「えっ?!トドク君?」
驚く十与。
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
目を瞑りテレパシーを送るトドク。
トドクの声「もしかして近くにいるのか?‥
大丈夫?しっかりして‥」
-223-
○富士樹海の森(夜)
十与「聞こえる‥トドク君だ‥」
緊張していた十与の顔が明るくなる。
再び目を閉じて祈る十与。
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
目を瞑りテレパシーを送るトドク。
トドクの声「そこにいて。今から行く」
ヒビクの腕をそっと外すトドク。
ヒビクの声「‥どうした?」
トドクの声「行きたいところがあるんだ‥」
ヒビクの声「駄目だ」
ぎゅっとトドクの腕を掴むヒビク。
トドクの声「大丈夫だから。すぐ戻って来る
‥」
ヒビクの声「トドク、生まれたよ」
トドクの声「本当?!‥おめでとう」
ヒビクの声「女の子、もう可愛いんだよ」
トドクの声「‥そっか、良かった」
-224-
ヒビクの声「うん‥こんなに幸せなことはな
い‥」
トドクの声「そうだね。ニイの幸せが嬉しい
よ」
首を横に振るヒビク。
ヒビクの声「なのに不安で仕方ないんだよ‥
」
トドクの声「どうしたの?」
ヒビクの声「さっき声が出ただろ?」
トドクの声「うん‥」
ヒビクの声「誰かと話してるの?‥前に言っ
てた人か?声が聞こえるっていう‥」
トドクの声「‥うん、近くにいるから行って
くる。すぐ戻って来るから」
ヒビクの声「トドク、伝心が弱くなってるの
気づいてる?時々俺の声が聞こえてない‥
」
戸惑うトドク。
トドクの声「‥ニイ、これで最後だから‥も
う外へは出ない」
-225-
ヒビクの声「トドクの伝心が弱くなったのは
外に出たからだけじゃない。外の人間と接
触し過ぎたんだと思う。今外の人間と会っ
たらここへ戻って来れなくなるかもしれな
い」
トドクの声「それでも、今行かない訳にはい
かないんだ」
ヒビクの声「トドク‥もしこのまま戻ってこ
れなくなったら、トドクもその人も不幸に
なるよ。出て行くんなら準備を整えてから
じゃないと。落ち着いて、ちゃんと考えて
」
霧虹を見つめるトドク。
トドクの声「‥分かった、そうだね。行くの
は止める。けど伝心だけは送らせて‥」
ヒビク、ゆっくり腕を離す。
トドク、ヒビクから少し離れて目を瞑
る。
ヒビクの声「待って!トドク」
ヒビクの方を振り返るトドク。
-226-
ヒビクの声「ごめん‥俺の勝手な憶測だけど
、もしも今の状態で外の人に伝心を使えば
‥もしかすると‥」
ヒビクの方を振り返るトドク。
トドクの声「ニイの言う通りかもしれない‥
でも、これだけは譲れない。ごめんニイ‥
」
ヒビクの声「無理だよ‥悪いけど頷いてはあ
げられない‥」
トドクの声「‥」
ヒビクの声「でも止めることもしてはいけな
い気がする‥それが今俺が精一杯してあげ
れることだと思う‥」
立ち竦んだまま、じっとトドクを見つ
めるヒビク。
トドク、霧虹の方へ向き直る。
トドク、息をつき目を瞑って集中する
。
森が風でざわめく。
トドクの声「聞こえる?ごめん、俺行けない
-227-
けど、霧虹の方向に向かって進める?‥そ
うすれば帰れるから。森がそう言ってる‥」
○富士樹海の森(夜)
祈っている十与、目を開ける。
十与「‥霧虹の方向?あれだ‥」
十与、虹に向かって歩き始める。
十与「分かった‥ありがとう」
十与、振り返り東の空に霧の中でぼん
やりと浮かんでいる月の方向を眺める。
十与「トドク君、私ネパールに行くよ。どん
なことが待ってるか分からないけど、行っ
てみる‥」
○富士樹海の森・ケケレヤツへの入り口にあ
る目印の岩(夜)
目を瞑りテレパシーを送り続けるトド
ク。
トドクの声「‥昔一度霧虹を見たことがある
んだ。ジイが亡くなった日だった‥」
-228-
じっとトドクの姿を見ているヒビク。
○富士樹海の森(夜)
虹の方向へまっすぐ歩いて行く十与。
十与「‥うん、聞こえてる」
○富士樹海の森・ケケレヤツへの入り口にあ
る目印の岩(夜)
目を瞑りテレパシーを送るトドク。
トドクの声「‥俺が12歳の時に母さんが病
気で亡くなって、死ぬほど悲しくて悲しく
て‥だけどいくら悲しんでも母さんは帰っ
てこないことも分かる年齢だった‥」
〇(回想)富士樹海の森の中の地下にあるケ
ケレヤツ・トドク達の住む家・トドクの部
屋(夜)
布団の中で一人泣いているトドク。
トドクの声「母さんがいた日が昨日になって
、一昨日になって、三日前になって‥母さ
-229-
んがいた日が遠くなっていけばいく程、悲
しみの箱が一つ一つ上に積まれていくよう
で苦しくて怖くて‥今日が何月何日なのか
も分からなくて、教えられても全然頭に入
ってこなくて‥」
○(回想)富士樹海の森の中の地下にあるケ
ケレヤツ・トドク達の住む家・キッチン
(朝)
目玉焼きを焦がしているカガク(4
0)。
トドクの声「最初に普通の生活を始めたのは
父さんだった‥」
カガクの横に立ち、不器用な手つきを
見て笑っているヒビク(15)。
トドクの声「俺らが悲しんでいたら父さんが
壊れてしまいそうな気がして‥」
ドアを開けて入ってくるトドク(12)
にヒビクが気づき、笑って手招きする。
トドクの声「父さんが俺らの為だけに一日を
-230-
過ごしてるようで‥」
トドク、卵を割り砂糖と塩を混ぜ合わ
せ、器用な手つきで卵焼きを作る。
トドクの声「自分までいなくなる訳にはいか
ないって言い聞かせているようなそんな感
じに見えて、俺らはその時悲しみを封印し
たんだ‥」
拍手するカガクとヒビクに少し照れて
いるトドク。
トドクの声「俺とニイとの暗黙の了解だった
‥そうじゃなきゃ一日を保てなかった‥不
自然なほど誰もカアのことを話さなくて、
思い出すことは不在を突きつけられるよう
で‥そんなことに耐えられる筈もなかった」
少し離れた所から三人の様子を目を細
めて眺めているジイ(65)。
トドクの声「ずっとずっと薄いガラスの上に
いるような怖さの中で、俺らは必死に一日
を繰り返し過ごしてた‥」
-231-
○(回想)同・居間
ベッドに横たわっているジイ(68)。
ベッドの周りで泣き崩れるヒビク(1
8)とトドク(15)。涙を流しなが
ら二人の肩に手を置くカガク(43)。
トドクの声「だけど3年後ジイが亡くなった
時、俺達は思い切り泣いた‥もう悲しんで
も大丈夫だっていう自信みたいな物が漸く
持てたような気がしたんだ‥」
○(回想)富士樹海の森・ケケレヤツから少
し離れた場所(夜)
霧が立ち込めるの中、座って花を手向
けて祈っているトドク、ヒビク、カガ
ク。立ち上がり振り向くと西の空に霧
虹が掛かっている。
トドクの声「それから父さんはケケレヤツに
は医学が必要だって言って、北海道に住む
知人の元へと出て行った。実際外の人達に
比べてケケレヤツに住む人の寿命は極端に
-232-
短い。父さんは10年間思い切り勉強して
戻って来るから、10年したら迎えに来て
欲しいって皆に約束をして出て行ったんだ
‥伝心は消えるだろうから戻ってきても父
さん一人だけは喋ることになるんだろうけ
ど、それでも行くって言った‥」
大きなリュックを背負い手を振って歩
いていくトドク。大勢のケケレヤツの
人々に見送られている。
トドクの声「誰も止めなかった。進んだ医学
の技術があれば、母さんを救えていたかも
しれないときっと父さんはずっと思ってい
たんだって分かった。皆、父さんの悲しみ
を共有していた。ケケレヤツの人達は皆そ
うなんだ‥」
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
目を瞑りテレパシーを送るトドク。
空にかかっている霧虹とざわざわと揺
れている森。
-233-
トドクの声「‥俺も二十歳になったら外に出
ようと思う。ずっと迷ってたけどやっぱり
そうする。偶然お前に会って外の世界の人
達に初めて触れて、外の世界に住む人達も
俺達と同じように悩んだり苦しんだりして
るんだなって分かった。俺、外に出ても何
も出来ずに終わるんなら残った方が良いん
じゃないかって思ってたけど、でも何も出
来なかったとしても構わないと思う。今日
漸く決心がついたよ」
○富士樹海の森(夜)
泣きながら歩いている十与、急に視界
が開け道路に出る。
霧虹が夜空に掛かっているのが綺麗に
見えている。
十与「すごい‥」
○富士樹海の森・大きな岩(夜)
目を開けるトドク。
-234-
トドクの声「届いた気がする‥」
大きく息を吐き、空の霧虹を見つめる
トドク。振り返りヒビクの方へ歩み寄
る。
トドクの声「ニイ‥ごめん。もう大丈夫。帰
ろう」
トドクをじっと見つめているヒビクの
顔が悲しそうに変わる。
トドクの声「ニイ?‥」
風がやみ鳥の声が響き始める。
ヒビクの手を取るトドク。
涙が止まらないヒビク。
トドクの声「ごめん、ニイ‥ごめん‥」
ヒビクの手を胸に当て祈るトドク。
〇富士樹海の森の中の地下にあるケケレヤ
ツ・ムクナの住む家・表(夜)
ケケレヤツの人々が大勢集まって赤ん
坊の誕生を祝福している。
その中心に赤ん坊を抱っこしたミヤギ
-235-
とその隣で椅子に座っているムクナ。
ヒビクとトドクが歩いて来ているのに
気づくムクナ。
ムクナの声「トドク、どこ行ってたんだよ」
人々が一斉にトドクとヒビクの方を振
り向く。
赤ちゃんに近づいてくるトドク。
ムクナの声「さっきアクビしたよ。見て、ヒ
ビクに似てない?」
トドク、ミヤコの腕の中の赤ちゃんの
手を嬉しそうにそっと触る。
ムクナの声「トドクも抱っこしてみてよ。首
を支えれば大丈夫だから」
ミヤコ、赤ちゃんをトドクに渡そうと
する。驚いて慌てるトドク。
ムクナの声「首を支えるんだよ。違う、首の
下だよ‥トドク?‥どうした?」
トドクをじっと見つめるムクナ。
ムクナの視線に気づき、理解していな
いように戸惑いながらムクナを見てい
-236-
るトドク。
ムクナの声「まさか‥聞こえてないのか?」
ムクナ、ふとトドクの後ろにいるヒビ
クを見ると、ヒビクが小さく頷く。
ムクナの声「嘘だろ?!何でだよ!」
ムクナ椅子から立ち上がり、トドクの
頭を抱きかかえる。
ムクナの声「嫌だよ、トドク!」
呆然としているトドク。
少し離れた所で立ちつくし、涙を拭う
ヒビク。
○花舞駅前ロータリー・バス停(夕)
タイトル『1年後』
バス停に『富士神原樹海入口→花舞駅』
とプレートに表示されたバスが止まる。
バスから降りてくるトドク(20)、
雨が降っている空を見上げ、ビニール
傘をさす。
-237-
○外国人支援事務所・外観(夕)
元善行地家だった二階建ての建物。吉
沢が務める『外国人支援事務所・花舞
支部』の文字がドアに書かれている。
○同・表(夕)
ビニール傘を差したトドク、建物を眺
めている。
入口から吉沢(61)が出て来る。
トドク「…」
道路を渡り駅方向へ歩いていく吉沢、
道路に立っているトドクを怪訝そうに
眺める。
トドク「‥」
吉沢「‥何か、ここに用事ですか?」
首を横に振り、会釈をして引き返すト
ドク。
吉沢「…」
○電車・車内(夕)
-238-
トドク、電車の窓から富士山のシルエ
ットを眺めている。
○コーポ富士見の前の道路(夜)
元十与の住んでいた3階の右上の部屋。
その部屋の窓を見上げているトドク。
ポケットから小瓶に入ったオセロのコ
マを取り出し見つめる。
部屋の灯りが消える。
トドク、緊張して待っていると入口か
ら知らないの女性が出て来る。
トドク「‥」
灯りの消えた窓をぼんやり眺めている
トドク。
○アウトドア用品店・外観(夜)
明かりが消えているお店。
○同・事務室(夜)
綺麗に片付けられている事務所。
-239-
布団が敷かれたソファに横になり、天
井を見上げているトドク。口を開けて
言葉を発しようとするが、声が出ない。
喉を手で押さえるトドク、汗をかいて
ガバッと起き上がる。
○同・表(夜)
静まり返った街。遠くに薄っすらと富
士山のシルエットが見えているのを眺
めているトドク。
トドクの声「ニイ‥やっぱり怖いね‥朝まで
ケケレヤツにいたのが信じられないくらい
遠い‥ニイ‥」
富士山の上に月が掛かっている。
○同・事務所
窓から日差しが差し込んでいる。
伝票を見ながらパソコンにデータを入
力しているトドク。
ドアが開きシン(30)が入って来る
-240-
。パソコンの画面を覗くシン。
シン「これで店の売り上げとか在庫の管理と
かが出来るようになるのか?」
頷くトドク。
シン「‥さっぱり分からん」
微笑むトドク。
シン「でもトドクが来てくれて助かるよ。今
度ウチでも小さな窯を作って炭造りしたい
と思うんだ。教えてくれるかな?」
嬉しそうに頷くトドク。
シン「声出す練習も少しづつやっていこうな
‥」
トドクの表情が曇る
シン「大丈夫だよ。そんな不安そうな顔する
な」
パソコン画面に文字を打つトドク。『
シンはどれくらいかかったの?』
シン「最初に声が出るまでは半年かかったけ
ど、そこから言葉を話せるようになるのに
はそんなにかからなかったよ。元々話せる
-241-
ように出来てるんだなって思った‥何かケ
ケレヤツが否定されてるみたいで、悔しく
も思ったけど‥」
画面に『半年も‥俺耐えられるかな‥
』の文字。
シン「思い詰めると良くない。遠くを見ない
でその日その日を努力していくといいよ」
画面に『分かった。頑張るよ』の文字
。
シン「辛いときは辛いってちゃんと言ってな
。何も出来ないけど、分かってないってこ
とを分かっていたいんだ‥それが一番難し
いけど‥」
画面に『うん。ありがとう』の文字。
シン「俺、トドクが来てくれて嬉しいんだよ
。本当に‥トドクが想像してるよりうんと
嬉しいんだ」
ふとシンを見上げるトドク。
○昭和公園・公園内
-242-
誰もいない公園に立っているトドク、
ため息をつき歩いて行く。
○団地・アイネの住んでいたアパートの前
取り壊し工事が行われている。
じっと工事を見ているトドク。
○昭和大学・門
門に『昭和大学』の文字。
学生達が行き交っている。
○同・学食
大勢の学生達が昼食を食べている。
テーブルの間を十与を探しながら歩い
て行くトドク。
隅の方で食事している矢内仁美(20)
と向かいに座っている同級生に気付く。
急いで近づいて行き、仁美の向かいの
同級生を確認するが十与とは違うこと
に気づくトドク。
-243-
驚く同級生。
同級生「え?何ですか?」
頭を下げ足早に立ち去るトドク。
同級生「何だろう‥」
怪訝そうにトドクの方を振り返る同級
生。
入口から出て行くトドク。
仁美「‥どこかで見たことがある気がする。
誰だっけ‥」
仁美の携帯の音が鳴る。
仁美「あ、十与ちゃんからラインだ」
同級生「ほんと?何だって?」
仁美「すごい。すっかり現地人だよ。お祭り
だったんだって」
携帯の画面を見せる仁美。
全身色のついた粉だらけになった十与
と小学生くらいの女の子が写っている
写真。
同級生「ほんとだ。楽しそう。すごね、頑張
ってるんだね」
-244-
仁美「うん、ほんとすごい」
同級生「ネパールか‥考えられないな‥」
仁美「うん、初め聞いた時は驚いた‥何か十
与ちゃんあの頃急に変わったんだよね‥」
同級生「へえ‥そうなんだ。どんな?」
仁美「‥何か急に授業で発言したり」
同級生「ああ、何か覚えてる‥阿世先生の授
業じゃなかったっけ?」
携帯を仁美に返す同級生。受け取り画
面を眺める仁美。
仁美「あ、そうだ‥思い出した。あの時の十
与ちゃんの従弟だ‥」
立ち上がる仁美。
○同・学食・入口
仁美、入口から廊下を見回すがトドク
は見当たらない。
○同・中庭
十与を探し歩いているトドク。
-245-
立ち止まり、空を見上げる。
トドク「‥どこ?」
自然に声が出たことに驚くトドク。
○国際大学・外観
門に『国際大学』の文字。
門の近くにクリスマスの飾りつけをさ
れたもみの木が立っている。
トドクN:あいつに出会えないまま一年九か
月が経った。
○同・大講義室
阿世(43)の講義を受けている生徒
の中にトドク(21)の姿。
白板に『招待講師・昭和大学・人間環
境学経済科・准教授阿世』の文字。
○同・廊下
教室から出て歩いて行くトドク、肩を
叩かれ振り向くと阿世が立っている。
-246-
阿世「ここにいたのか‥」
トドク「‥お久しぶりです」
阿世「良い声だな‥」
頭を下げるトドク。
阿世「‥大検受けれたんだな」
トドク「はい、受験も出来て、春からここに
通ってます」
阿世「そうか‥良かったな‥」
トドク「‥阿世先生にも協力して頂いたと聞
きました。ありがとうございました」
阿世「いや‥自分もして貰ったことだ‥」
トドク「はい‥」
阿世「じゃ、頑張れよ‥」
歩いて行く阿世。
トドク「‥」
○紙漉駅・外観(夕)
人が行き交っている大きな駅。
霧雨が降っている。
-247-
○紙漉駅ビル一階・本屋(夕)
本を数冊選んでいるトドク。
トドクの後ろで店員二人が棚の高い所
の本を取ろうとしている。
店員「届く?」
ふと店員の方を見るトドク。
トドク「取りましょうか?」
トドク、本棚から本を取り店員に渡す。
店員「ありがとうございます」
トドク、ふと窓の外を見るとトドクの
青いチェックのコートを着た女性が歩
いて行く。
トドク「え‥」
トドク、慌てて手に持っていた数冊の
本を本棚に戻そうと元の場所を探す。
トドク「えっと‥これどこだったっけ‥えっ
と‥」
バタバタと本を戻していくトドク。
○紙漉駅ビル一階・本屋・入口(夕)
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入口からトドクが出てくる。
霧雨の中、遠くにスーツケースを引い
た青いチェックのコートを着た女性が
傘を差さず歩いているのが見える。
走り出すトドク。
○紙漉駅前道路(夕)
女性に向かって走っていくトドク。
バス停にバスが止まり、女性がスーツ
ケースを抱えてバスに乗り込む。
トドク「すみませーん!」
トドク、大声で叫ぶが周りの騒音にか
き消される。
女性を乗せたバスが発車する。
息を切らしてバス停まで走って来たト
ドク、バスが遠ざかっていくのを見て
いる。
トドク「駄目か‥」
ぼんやりとバスを眺めているトドク。
トドク「違う人かな‥いや、でもあのコート
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は絶対そうだ‥バアが生地から作ってくれ
た」
トドク、バス停の時刻表を確認する。
時計を見ると4時22分を差している。
時刻表を追っていくと4時20分発が
あることに気づく。
トドク「これだ‥風立病院行き?‥次は40
分発か‥バイトまでには何とか戻れるかな
‥」
じっと時刻表を見つめるトドク。
○バスの車内(夕)
窓の外をじっと見ているトドク。
トドク「途中で降りたかもしれないのに‥ア
ホだな、俺‥」
○風立病院・外観(夕)
海の近くの20床程の病院。
雨が上がり、日が差している。
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